🌸 8.王家の谷 (桜井市忍阪)

 粟原川(忍坂川)の谷には非蘇我系皇族の忍坂王家の人々の墳墓と思われる古墳が数多く存在し、今からご紹介する「忍坂谷王陵群」(仮称)は、その中心をなすものと思われます。

被葬者別に 並べると、大伴皇女墓、段の塚古墳(舒明天皇陵)。鏡王女墓の三陵墓(但し鏡王女墓は現在は指定外)があり段の塚古墳は舒明天皇と、母の田村皇女の合葬の為4人の皇族が葬られています。

舒明天皇陵(段ノ塚古墳)

 

 段ノ塚古墳は尾根の先端に築かれた上八角下方墳で「舒明天皇押坂内陵」として宮内庁で管理されています。 

全体の大きさは南北で約80m、東西で約110mで八角墳丘部の対辺間の距離は約42m、高さは約12mで当時としては最大級の規模を誇ります。文久年間(1861~64)の「山陵考」に八角墳の南面が崩壊し石室が露出した際、石室内に石棺が2基あり、奥の石棺は横に、前の石棺は縦に置いてあったという村人の話が伝わっています。

 

 飛鳥時代の大王墓は舒明陵を始まりとして曾孫の文武天皇まで八角墳が作られ続けます。舒明天皇は日本書紀によると舒明13年(641年)に崩御され翌々年の皇極2年(643年)に「押坂内陵」に改葬されたとあり、母親の田村皇女は天智3年(664年)に亡くなった事が記されています.『延喜式』では、田村皇女は押坂墓「舒明天皇陵内」とされている事から合葬されている可能性があり文久年間に村人が見た2基の石棺が見えたという話と符合します。忍阪周辺には同時代の有力な古墳は舒明天皇陵をおいて他になく研究者の間でも被葬者は舒明天皇と母親の田村皇女の可能性が高いと言われています。

鏡王女墓

 

 この鏡王女墓は平安時代前期に編纂された「延喜諸陵式」には押坂墓「押坂陵域内」とありますが舒明天皇との関係は明確ではありません。「奈良県遺跡地図」には鏡皇女陵(15A-76)円墳、径15mと記されています。

 

 埋葬施設は未調査で築造年代を特定する材料はありませんが立地場所は忍坂山(外鎌山)の南斜面の小さな支尾根に造られ風水思想に基づいた終末期の古墳の特徴を備えています。

 

 鏡王女は、はじめ天武天皇の妃で後に藤原鎌足の正室となった人と言われている関係で談山神社とのつながりが強く、談山会(戦前?に消滅)の建てた看板もあるので一見、談山神社の管理地との誤解もありますが、ここは民有地で地元の老人会が中心となって維持管理されています。周囲の景観もつつましやかな鏡王女に相応しい墳墓で万葉の時代ってこんな感じだったのかな?と思わせてくれるような静かな佇まいです。 

 大伴皇女墓

 

 大伴皇女は欽明天皇と堅塩媛(蘇我稲目の娘)の皇女で古事記には大伴王と記されています。兄弟には推古天皇、用明天皇がいます。したがって大伴皇女は聖徳太子の叔母さんという事になります。

 

 延喜式では「大伴皇女押坂内墓」とされ宮内庁で管理されています。末調査ですが「三方山囲み」の南面する地勢に造られている単独墳で立地からみると終末期古墳の可能性があります。尚、奈良県遺跡地図 では15-A-77と記されています。尚、戦前に書かれた「磯城」という書物には、数行だけですが奥室を持つ古墳として伝承されているとの記事があり興味をそそられます。

 

 万葉学者の犬養孝さんは、著書「万葉とともに」で、この大伴皇女付近の事を「・・・将来はわからないにしても、せめてこのやまぶところの静けさだけでも、この国の未来にかけてこのまま残っていってほしいものである。そこには千三百年の声々が、心と言葉の美しさに昇華してまざまざと生きづいているのだか」と記されています。