🌸 44.海石榴市 (桜井市金屋 )

桜井市金屋は近世に金物を売っていたから付いた名前で、この一帯こそ古代の交易市「海石榴市」(つばいち)です。海石榴市の名のおこりについては諸説がありますが一般的には椿(ツバキ)の樹木が市(いち)のあちこちに植えられ、それが呼び物であったといわれています。 

三輪山の南西の麓のこのあたりは泊瀬川の水上交通機能と泊瀬道、山田道、山の辺の道などの諸道が集結する、いわば古代のターミナルともいえる場所で、特に泊瀬川(大和川)の果たした役割は大きく、古代大和朝廷と大陸を結ぶ重要なルートの始発点(終着点)で諸外国の使節が発着する都の下港としても重要な役割を果たしてきたのです。

 

日本書紀によると、欽明天皇13年(552年),百済の聖明王の使者が、この地に釈迦仏の金銅像や経典を献上したとあり、それをもって日本に仏教が伝来したとされ近年、泊瀬川沿いに「仏教伝来地」の顕彰碑が建てられています。また、推古天皇16年(608年)遣隋使の小野妹子が帰国したのもこの地で隋からの使者である裴世清(はいせいせい)一行を朝廷側は飾騎(かざりうま)を75匹用意し、盛大に迎えたと日本書紀は伝えます。 

 

また海石榴市は歌垣のあった場所としても知られ万葉集にも次の三首が残されています。
紫は 灰指すものぞ 海石榴市の八十の巷に 逢へる兒や誰 巻12 3101
たらちねの 母が呼ぶ名を 申さめど 路行く人を 誰と知りてか 巻12 3102
海石榴市の 八十の衢に 立ち平し 結びし紐を 解かまく惜しも 巻12 2951

八十の衢とは多数の道が合流する地点をさし、この海石榴市は物品の交換や商いをする市が立ち男女が出あう歌垣の場と知られるほか神を媒体とした懲罰や処刑の場としての機能や雨乞い、授戒、葬送など他界への出入り口としてお祓いや浄めの役割もあったことが日本書記からもうかがえます。

 

今の海石榴市は忘れ去られたような感じですが泊瀬川(大和川)沿いの金屋河川敷公園や海石榴市観音で想像力を膨らませて往時の賑わいを想像してみるのもいいかも知れません。