🌸 29.万葉に歌われた磐余池

磐余池推定地

 

「磐余池」は古代史の舞台として登場しながら、その所在地が未だ確定されていません。磐余は、現在の桜井市の南西部一帯の古い地名で、記紀万葉にも、たびたび登場します。日本書紀では、履中天皇が磐余池を築造したとあります。池の名は当初は磐余市磯池(いちしのいけ)と呼ばれていたようで書記に履中天皇が皇后と磐余の市磯池で遊宴中に桜の花が盃に落ちた事を天皇は珍しい事と喜ばれ、この桜のあった御所の掖上の桜を清水湧き出る泉のそばに植えられ宮の名前も磐余稚櫻宮にされたという有名な話が伝わっています。万葉集では、686年、大津皇子が大逆罪の罪を得て訳語田(現在の戒重)の家で刑死する直前に詠んだとされる辞世の歌がのこります。

百伝ふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ (巻3-416) 

 

磐余は5世紀の履中、清寧、6世紀の継体、そして7世紀の用明のと四人の大王(天皇)が、宮を造営したという王家の地だったのです。しかし、いずれの宮跡も未だ特定されていません。

 

磐余池の所在については、従来から2つの説があり一つは、和田萃、京都教育大学名誉教授が、現在の桜井市南西部の池之内、橋本、阿部から橿原市の東池尻町を含む同市南東部にかけての地域に磐余池があったという説を発表されています。今もこの地域には、池之内や池尻といった池に関係した字名が数多く現存し、古くから潅漑用の巨大な池が存在したことを伺わせています。しかし磐余池そのものが、こんなに大きなものだったのかはわかりません。

 

これに対し、千田稔・奈良県立図書情報館長は桜井市谷の石寸山口神社付近とする説で。聖徳太子が幼少・青年期を過ごしたとされる上宮の名称は、父、用明天皇の宮の南に営まれたことに由来すると言われています。上宮跡は現在、桜井市上之宮の住宅地にある上之宮遺跡。従って用明天皇の磐余池辺双槻宮は上宮の北に位置する池の畔に営まれた宮殿でなければならないとされます。しかしこの付近に人工の池が存在したかどうかは不明です。

 

2013年、橿原市の東池尻町で、人工的に築かれた堤(6世紀後半頃)や建物跡が発掘調査で確認されたと、橿原市教育委員会が公表しました。検出されたのは主に7世紀代の遺構で磐余池だったと断定するには至っていません。